小さめサイズのカラコンもあります

カラコンは「デカ目」とか「メガ盛り」とかとにかく瞳を大きく見せるものが主流です。
しかしそういう大きめカラコンはもちろん、普通サイズのカラコンでも瞳が大きく見えすぎて宇宙人みたいになってしまうということに悩んでいる人もいるはずです。
それでもカラコンを使っておしゃれをしてみたいと思うのはおかしいことではありません。

そんな人たちに紹介したいのが小さめサイズのカラコンです。
ここで言う小さめサイズとはレンズサイズのことではなく、レンズの着色直径のことです。
一般的なカラコンは着色直径が13mm以上のものがほとんどだと思うのですが、13mmよりも小さいカラコンも探してみれば色々とあります。
例えば下記のURLでは着色直径12.6mmのカラコンが色々と紹介されています。
http://xn--48jueof6a3u6bv756b.biz/12-6mm

小さめカラコンの中で一番着色直径が小さいのはフォーリンアイズのミニカラコンシリーズだと思います。
一般的なカラコンは着色直径が13mm以上と書きましたが、フォーリンアイズのミニカラコンは何と着色直径が12.2mmという小ささです。
これなら目が小さくて悩んでいる人でも宇宙人にならなくて済むと思います。

逆に12.2mmだと小さすぎるという人もいると思います。
そんな人はモアコンタクトという通販サイトでカラコンを探すことをおすすめします。
モアコンタクトはカラコンの着色直径を指定して商品検索をすることができるのです。
指定できるのは着色直径だけではないので、

  • 着色直径:12.4mm
  • 色:グレー
  • 使用期間:ワンデー
  • 度:度あり
  • フチ:フチあり

こんな風に複数条件を指定してカラコンを探すことができます。
これはとても便利だと思います。

一発で自分にぴったりのサイズのカラコンを見つけ出すのは難しいと思うので、まずは色々なカラコンを試してみてほしいと思います。

参考サイト:カラコン小さめ

大きいサイズの可愛い服は通販で買うのがおすすめ

リアル店舗だと大きいサイズの服を扱う店はそれほど多くありません。
大きいサイズを扱っていてもデザインがあまり可愛くなかったりということもあります。
お気に入りのショップを見つけるのも一苦労です。

しかし、ネット通販であれば夜中だろうが早朝だろうが暇なときにスマホやパソコンでショップを探したり、商品を見たり、注文したりが簡単にできます。
通販の場合には試着ができないのが心配かもしれませんが、今自分が着ている服の寸法を測っておくといいです。
今は通販サイトではLとかXLとかのサイズだけではなく、商品の詳細な寸法も公開しているサイトが多いので、今自分の着ている服の寸法と照らし合わせて購入すればサイズで失敗することはあまりありません。

リアル店舗の場合、試着したけどいまいちだったので買わないというのはちょっと気まずい部分もありますが、通販の場合には自分が納得いくまでじっくりと考えられますし、今書いた通りサイズも失敗しない選び方があります。

あとは商品の色と質感ですが、これは買ってみないとわからないことが結構あります。
画像だとグレーもネイビーも黒に見えてしまうことがあったり、洋服の生地の質感まではわからない場合があります。
この部分はリアル店舗に負けている部分ですね。

しかし、総合的に考えるとネット通販で服を買うのはとてもおすすめです。

では大きいサイズの安くて可愛いレディースファッション通販サイトはどんなショップがおすすめかというと、大きいサイズの専門店ゴールドジャパンというショップがおすすめです。
このショップはただ大きいだけではなくデザイン的にも可愛い服がたくさんあります。
興味のある人は下記サイトからゴールドジャパンの公式サイトを訪問してみてください。
ゴールドジャパン以外にもソウルベリーというショップも紹介されています。
大きいサイズ 可愛い服 通販

脂性肌のテカリ防止に良さそうな化粧下地

脂性肌といえば真っ先にイメージするのが顔のテカリです。
そしてテカることによって鼻や頬の毛穴やニキビ跡が目立つこともあります。
男性の場合には脂取り紙などでこまめにケアするしかありませんが、女性の場合にはメイクでカバーできる部分もあります。
しかし脂性肌の場合には皮脂でメイクも崩れやすいです。
その場合下地を脂性肌用のものに変えてみるのもひとつの手です。
脂性肌用の化粧下地は下記サイトでいろいろと紹介されています。
オイリー肌の女性におすすめの化粧下地

せっかくなのでここでも少し紹介します。
まず試してもらいたいのがミムラスムーススキンカバーという下地です。
顔のテカリや毛穴をカバーしてくれる下地です。
少量を手に取ってそれを顔に薄く伸ばして使います。
多く付けるとダメなので付ける量は少なめというのがポイントです。
1つ買えば2ヶ月くらいはもちます。
通販で購入できます。

そしてもうひとつがセルフューチャーシルキーカバーオイルブロックです。
これはミムラスムーススキンカバーとよく似ていて特徴などもほぼ同じです。
この下地も付けすぎに注意して薄く伸ばして使います。

エテュセオイルブロックベースという商品はTゾーンなどに部分使いする下地で、ネットでは結構人気のある下地だったのですが、現在は販売が終了してしまい購入できません。
その代わり今は「薬用Cセラム」という商品が販売されていて、これも毛穴やテカリをケアしてくれる商品です。
商品名にも関係しますがビタミンC誘導体が配合されているので、紫外線を浴びた肌にいいのではないでしょうか。
過剰な皮脂分泌には二つの皮脂吸着パウダーで皮脂を吸着して、サラサラを持続させます。
この「薬用Cセラム」はドラッグストアなどでも手に入りやすいようです。

宮本百合子2

 きょう、わたしたち女性の生活に文化という言葉はどんなひびきをもってこだまするだろう。文化一般を考えようとしても、そこには非常に錯雑した現実がすぐ浮び上って来る。このごろの夏の雨にしめりつづけてたきつけにくい薪のこと、そのまきが乏しくて、買うに高いこと。干しものがかわかなくて、あした着て出るものに不自由しがちなこと。シャボンがまた高くなったこと。夏という日本の季節を爽快にすごすことも一つの文化だとすれば、多くの女性の生活には、文化らしいものさえもたらされていない。雑誌のモードは、山に海にと、闊達自由な服装の色どりをしめし、野外の風にふかれる肌の手入れを指導しているけれども、サンマー・タイムの四時から五時、ジープのかけすぎる交叉点を、信号につれて雑色の河のように家路に向って流れる無数の老若男女勤め人たちの汗ばんだ皮膚は、さっぱりお湯で行水をつかうことさえ不如意な雑居生活にたえている場合が多い。
 その半面、このごろのわたしたちの生活は、決して戦争時分のように、どっちを向いても食べているのはおたがいに大豆ばかりという状態ではなくなっている。おいしそうに見事な果物や菓子が売り出されている。きれいな夏ものが飾られ、登山用具はデパートのスポーツ部にあふれている。軒をならべた露店に面して、よくみがかれた大きいショーウィンドをきらめかせているデパートはすべてが外国風な装飾で、外国人専用のデパートの入口には外国の若い兵士が番をしている。その入口を出て来る人の姿を見ていると、あながち外国人ばかりでもなくて、大きい紙包を腕にかかえた日本の女もまじっている。そういう日本の女のひとたちは、どうしてあんなに、わたしはみんなとちがいます、という風な愛嬌のない、きれいさのない顔つきをして通行人にたち向わなければならないのだろう。その表情を見るような見ないような視線のはじにうつしとって、瞬間の皮肉を感じながらゆきすぎる男女の生活は、日々の勤勉にかかわらず三千七百円ベースの底がひとたまりもなくわられつつある物価の高さによろめき、喘いでいるのだ。

 今からもう二十一二年昔、築地の方に、Sと云う女学校がありました。その女学校の一年の組に、政子さんと芳子さんと云う生徒が居りました。私はこれから此の両人と、両人のお友達だった友子さんと云う人との間にあった事を皆さんに聞いて戴こうとするのです。
 政子さんと芳子さんとは、従姉妹同志で、小学校の時分から、一緒の家に住んでいました。政子さんのお父様は立派な学者でしたが、体がお弱くて、早くお没なりになり、お母様も直ぐ死んでおしまいになったので、まだ小さい政子さんはたった一人ぼっちの可哀そうな子供になってしまいました。そこで、伯父様に当る芳子さんの御両親が、自分の子のようにして、育ててあげて来たのです。
 政子さんは、何でも芳子さんと同じにして大きくなりました。同い年で小学校を卒業し、同い年で同じ学校に入り、両人は真個の仲よしで行く筈なのでした。
 芳子さんは、政子さんが、自分よりは可哀そうな身の上であるのをよく知っていましたから、いつも同情して政子さんの為に成るように、政子さんが幸福に楽しく暮せるようにとばかり、気をつけていたのです。
 こうして両人ともほんとうの子供だった時、何の不平もなく何のいやな事もなく過ぎていました。けれども段々大きく成って来ると、両人とも今まで知らなかった沢山の事を知るように成って来ました。先は、ちょっとも悲しい事でなかった事が、此の頃は大変悲しく感じられたり、先は綺麗と思った事もない花が、急に美くしい立派なものだと分って来たり――誰でもそう云う時がございますね、両人とも段々そう云う時に成って来ました。
 そうすると、今までは別にそれ程に思わなかった、自分は孤児だという事を、政子さんは此上なく寂しく辛く感じるようになりました。勿論両親のないと云う事は、真個に不幸な事です。けれども、もう死なれてしまった方がいらっしゃればよいと、いくら泣いても怒っても、仕方のない事ではありませんでしょうか。

 みや子は好奇心を動かされた声で、
「何でございましょう」
と傍の夫人に訊いた。夫人は、みや子を私かに苦しめている無気力の優美さで膝の上に置いた手の位置も換えずに答えた。
「きっと焼物でございましょう。――殿方はお娯みも多くてお仕合わせでございますことねえ」
 勢、会話は陶器と無関係な方向に流れた。彼女等はぽつぽつ近頃流行の婦人の水泳、乗馬、舞踏などの話をした。何を話し出しても夫人は、
「私共のようになりましてはねえ」
と微に眉を顰めるばかりである。到底全心を打ちこめない弱々しい殆ど退屈な会話の傍ら、みや子の注意は卓子の前にいる良人と子爵とに向けられた。二人の前には珍しい深紅色に光る皿が一枚出ている。みや子は、うっかり黙り込んだ自分を見出し、元気をとりなおして新たに話の緒を見出した。彼女は気候の話から、子爵夫人に旅行をすすめた。
「これから関西はさぞよろしゅうございましょうね。晨子さまの御仕度かたがたお揃いで京、大阪にお出かけ遊しませ。――よいお思い出でございましょう」
「それほどに致しませんでも、これで暫くところが変りますとね。当分はそれどころでもござりますまいが。――けれど、あいにくこれといって手頃な別荘もございませず……」
 みや子は訝しげに夫人を顧みた。

宮本百合子

 生きるために病とたたかう人たちをたすける看護婦という職業において、日本の看護婦は、どのように社会から評価されているでしょう。日本の看護婦は、その人々の気立てによって、親切でやさしい人も少くないけれども、一般として、訓練が不足しているということは定評でした。ですから、昨今は、日本の看護婦の能力の水準を国際的な高さにまでひき上げるための規則もやかましくなったわけでしょう。
 日本の看護婦が欧米の看護婦たちのようによく訓練されていず、しっかりしていないと、ひとくちに云っては、日本の現実を理解しないことだろうと思います。これまで、日本の婦人は、子供のときからお嫁に行く仕度ばかりさせられて育って来て、自分で職業を選び、その職業に対して社会的責任を感じながら自主的に成長してゆくというような生きかたは、例外でした。日本の婦人の大多数が、まだ社会的に経済的に独立して生活してゆく習慣をもっていないこと。この事実が、婦人の職業の一つとして看護婦という立場をとった場合にでも、何となし先生に対して依頼心のつよい、命令に従順でさえあれば、看護婦としての範囲とその責任において、臨機に病人を扶けてゆく積極性をかくわけでしょう。
 病気で苦しいとき、体さえ自分で動かせないとき、看護婦のまめまめしくて、統制のあるたすけの手は、たとえようのない慰安です。そのために、日本の看護婦の過労は、もっともっとどうにかされなければならないと思います。どこの病院でも、看護婦は不足です。結核療養所の看護婦が、過労していないという例は一つもありません。「病気と私」を読んだすべてのひとは、患者が床の上におとした物を自分で拾うことを禁じている。そのように十分の看護婦が配置されているサナトリアムの設備におどろくのです。

 こういう質問が出ることはわたしたちに深く考えさせるものがあります。ブルジョア雑誌は毎号かかさないように新しい時代の幸福とか恋愛とか結婚の問題をとりあげて沢山のページをさいています。『アカハタ』にはぬやま・ひろしの「大うけだった恋愛談義」という見出で記事がのりました。それらの恋愛論はそして結婚論は今日こういう問が出てくることに対してどういう責任を負うのでしょう。幸福というものはできあい品となってヤミ市に売っているものではありません。わたしたちを不幸にしている今日の現実の社会の矛盾と闘って人間らしい生活を組立ててゆこうとしている、その建設のうちにわたしたちの感じる幸福と幸福への途があります。
 女性の古い抑圧がとりさられて自分の判断で結婚の相手をえらび、また恋愛をする人間らしい自由が日本の社会にもだんだん実現してくるということは、自分で働き自分で人生の道を進んでゆく力のない昔の女が、どうせ愛情もなしに結婚するならばちょっとでもくらしの楽な身分のいい相手をみつけようとしてあせったその同じことを、こんどは親の手ばかりわずらわせず自分でさがしまわるということでしょうか。決してそうは思えません。まだまだ生活の実際では主食のことから住居のことからまったく自由でない苦しい生活のなかで、その苦しさと闘いながらすこしでも苦しさの原因となっている今日の社会の矛盾を改善してゆこうと努力する若い婦人であるならば、恋愛の相手としてヤミ屋の親分がえらべましょうか。食うに困らず、顔がきき、絹くつ下にも困らないからといって、そういう人の最善の愛人でありうるでしょうか。恋愛ということは字が示す通り、人間と人生を愛する心のうえにたって、男と女とが互いにひかれあう感情です。昔の人が手鍋さげてもといったその感情は、とぼしいなかにも二人が希望のある、そして見通しのある生き方をみとめあって、たすけあって不幸と闘ってゆくその幸福をいみした言葉ではないでしょうか。

 私はあのお話をきいた時、すぐに、到頭ゆくところまで行きついたかと思いました。私はあの方と直接の交際をしたことはなく歌や人の話で、あの方の複雑な家庭の事情を想像していただけですが、たとえ情人があってもなくても、いつかはああなって行くのが、あの方の運命だったのでしょう。あんなに歌の上では、自分の生活を呪ったり悲しんだりしているが、実生活の上では、まだ富の誇りに妥協して、二重な望みに生きているのだという気がして、私はいつでも、あの方の歌を拝見する度に、ある小さな不満を感じて居りました。が、今度の事件をみますと、しみじみ女としての理解と同情の念が湧いて来ました。女は夫を持てば、誰しも夫に愛されたいことばかりを考えますのに、家出をしたからとはいえ、「我儘者だ」とか「何も取柄のない女だ」などと平気でそんな毒口をきくような良人との間に、どうして純粋な清い愛があったといえましょう。こういう複雑な問題は、単にああなったことを、いいとか悪いとかというたような、世間並な批評は通用しないでしょう。夫人がこういう思いつめた最後の手段を取るまでには、どれくらい人知れぬ煩悶を重ねたことでしょう。私はただ人間としてあの方の境遇を非常にお気の毒に思います。今度のことは決して浮っ調子な、大勢の人々のひまつぶしな冗談として、ききすてることの出来ないことだろうと思います。